あじき記

雑記

言葉 感覚 恨み

 6歳くらいの頃、残った飯を「残飯」と称したところ母親にやめろと言われたことがあった。母の言い分として「残ったご飯」とかはOKなのだが、「残飯」とは言わないでほしいとのことである。

 「死ね」とかなら注意されるのもわかるのだが、「残飯」は問題なかろう。「残りごはん」と意味変わらねえじゃんと思った。その時は「あーうん」程度で流した。しかし理屈の通らぬことで怒られたことに対し、私はどうしても納得が出来なかった。

 

 母の苛立ちの源は「残飯」という言葉の表面的な感触に依るものである。何か漢字で冷たい感じするし即廃棄みたいな雰囲気あるよな。それは当時も理解をしていた。しかしそれは理屈ではない。自分で使わないのは勝手だが強制しないでいただきたいと思ったのである。

 今になって考えれば料理を作った母にそれを言う権利があるような気もするのだが、当時はそこまで考えが及ばなかった。

 

 何にせよ、その事件で反抗心が芽生えた。そして言葉の意味以外を気にする人間=アホであるという極端な認識が私の中に生まれた気がする。(正直あんま覚えてない でへへぇ〜)

 周囲と衝突してまで持つスタンスではなかったので特に生活では困らなかった。ら抜き言葉を執拗に注意する同級生にイラついていた程度だった。意味通じてんだろ。死んどけ。

  

 ただ人間は自分の言語によって思考に影響を受け続けるので、ゲロみてえな思想を発生させる言葉を変えていくのは意味あるだろうなとは思う。

 あと詩はそういうもんだから仕方がない。私は上記のスタンスによりあんま読めなかったんだけど修行で克服しました。

 

 上記二点について文句をつける気は全く無い。

 ただ自分が生活において喋った言葉を「なんかきらい」みたいな理由で突っ込まれるのはうぜえ。永遠にうぜえ。ゴミカス。友達ならお前うっぜえと遠回しに言えるからいいんだけど、立場が上の人間だとできない。

 怒られるのが嫌いだから強いものに反抗できない。クソ弱虫!って言われてもストレスとして言う>言わないだから。更に言わない>嫌なことを言われないというだけ。あーあ社会に出たくねえ。

  他人を変えることはできんのでさっさと自分の脳にそういうの回避する能力が備わってほしい。

 

 

    叶えてお星様〜〜〜⭐︎ミ

 

おわり